うらにわのリター

もう少し上手に生きたい(˘ω˘)

承認欲求の話

先日久しぶりに会った友人とちょっと話したことについて、思うことがあったので書いておく。

 

友人と話す中で「承認欲求」という言葉が出てきた時、私は反射的に否定的な言葉を使ってしまった。しかし、承認欲求=悪、ではない。と書きたい。

 

誰かに認められたいと思うのは悪いことではない。

私が否定的な言葉を使ってしまったのは、承認欲求によって目的と手段が入れ替わってしまうのを恐れているからだ。

例えば、好きで文章を書いている人がいるとする。「自分の書いたものを誰かに見てもらいたい」と思って、ネットにアップする。ネットにアップしたけれど、もっと多くの人に見てもらいたいと思って、それをSNSで宣伝する。それは悪いことではない。普通だ。

 

私が恐れているのは、誰かに認められたいという気持ちが先になって、やりたいという気持ちが後回しになる(というか、見えなくなる)ことだ。

先に挙げた例で極端な例えをすると、自分が書きたいことを全く書かずウケのいいネタのみを扱うようになる、というようなことだ。

これがどこで始まるのか分かれば止められる。ブレーキをかけてUターンできる。しかし、私は自分がどこから「やりたい」が後回しになっているのか、なかなか見分けがつかないのだ(私にとってはとても難しい)。

 

見てもらうことはとても嬉しい。その上、フィードバック(評価)までもらえたらとっても嬉しい。自分が趣味でやっていることとか、自分のためだけにやっていることは、外からどう見えているか把握するのが難しい。私の場合はブログだけれど、アップしてもしなくても変わらないんじゃないかと思うこともある。でも、誰かからリアクションが返ってくると、1人で壁に向かって話しているのとは違うんだ、これは発信なんだと改めて気づく。受け取り手がいることに安心する。嬉しいと思う。

付き合い方を間違えなければ、承認欲求は悪者にはならないのだ。

 

 

余談;

先日友人たちと会った時、何年か前に亡くなってしまった友人の話もした。

亡くなってしまった友人と最後に会った時、彼はこのブログの話をして「書き続けてね」と言ってくれた。

ちょっとした節目の集まりの場だったからか、いつも陽気なのに、しんみりしているように見えた。これを最後に言い残そうとしているような雰囲気にも思えた。しかし、茶化すのも憚られたので「うんうんありがとう」みたいな返事をしたと思う。それが本当に最後になってしまった。

これからも書きます。ちょっと間が空いたけど、また書きます。

ブログを書く理由

先日、身内の回忌に参加して思い出したことがある。それは今、私が手帳とかブログを書く理由につながるなーと思ったので、ここに残しておく。

 

思い出したのは、亡くなった姉の遺品の整理をしていたときのことだ。

姉宛に届いた郵便物の封筒が出てきた。姉はその封を指でちぎって開けたようで、指の当たっていたところが波打って残っていた。

結局それはゴミだから処分されてしまったのだが、私は子供ながらに「姉がいたと分かる証拠」なんだと思い、捨ててしまうことに心残りがあった。取っておいても何にもならないので、捨ててしまったと記憶している。

 

故人の好きだったものとか、かつて着ていたもの、使っていたものは残っていても、故人本人が直接何かしたあとが残っているものは、案外残っていないものである。

「直接何かしたあとが残っているもの」の例を示すのは難しいが、先に書いた「封筒を開けたあと」もそれに含まれると思うし、ペンで書いた文字も含まれると思う。

 

話が飛躍するけれど、だから私は手帳とか、ブログを書くんだと思う。「死んだ時に自分の感じたことを残しておきたいから」というと大袈裟だし、日々死を意識していると思われそうだけど、そういうわけじゃない。

 

直接その人が手がけたものというのは案外少ない。意識して残さないと残らない。

手紙とか、目的をもって書かれたものならまだしも、日々考えていたこととか、その人に起こったことの大半は、その人の頭の中にしかない。それどころか忘れてしまってその人の頭の中にさえなくなることもあろう。

だから書く。書くことで残す。別に誰にも見られなくてもいいのだけど、書かないと残らないことが多すぎる。人の頭の中を見ることができない以上、私が覚えていられなかったら誰も覚えていられないのだ。

 

別に感動したこととか、嬉しかったことじゃなく、久しぶりにいい肉食べたら体調が良かったとか、昨日は寝るのが遅かったから肩が凝ってバキバキだとか、そういう話でいいと思う。言うまでもないことだけど、それをネットにアップしなくてもいい。私は、スマホでもパソコンの中でもいいし、日記帳でも手帳でもいいから、どこかに目に見える形で残しておきたいし、できたら親しい人にも残しておいてほしいと思う。

 

先述したように、私たちは自分以外の人の頭の中を見ることができないから、私はその人がどんなことを残したいと思ったのか、その人がその日いた場所でどんなことを思ったのか、それをちょっと知りたい、と思っても、教えてもらわない限り知ることはできない。だからといって「その人がいなくなったら全部分からなくなっておしまい」は悲しい。

 

だから私は書くし、親しい人も書いてくれていたらいいなと思う。別に私が見なくても(一生見せてもらわなくても全然)いいから、その人が毎日感じた手触りみたいなものが、どこかに残っていてくれたらいいな、と思う。

故人の話をするということ

ブログに書きたいと思うことが浮かんでは消え、浮かんでは消え、書こう書こうと思って書かないでいるうちに丸1年経ってしまった。

今日は故人の話をするときに感じることについて書いておこうと思います。これは私の考えた事であって、万人に当てはまる正解ではないことを念頭に置いて読んでください。

 

数日前は、大学時代のある友人の命日だった。

その友人に関する思い出を誰かと話したいとか、SNSで発信しようかとも思ったけれど、話したり発信したりせずに終わった。人が話したり、発信したりしているのを見る分には抵抗感はないのだが、自分がそれをするとなると、何か引っかかるところがあった。

 

私が故人について話すことに抵抗があるのは、「故人を使って自分の話をしているように感じる」からだと思う。

 

私は昔身内を亡くしたことがある。当時は学生だった。家族以外の人に故人の話をしたいと思ったら、友だちくらいしか話す相手がいない。もし、友だちに故人について話すとしたら、「私は故人とこういう関係で、以前こういう思い出があって、だから……」と説明しなければ、相手に伝わらない。

聞く方は自分の知らない故人の話を急に聞かされて驚いてしまうだろうし、何よりその話をして分かってほしいのは私の感情についてではないか、と感じたので、私は故人の話をあまりしなかった。

それに、「故人の思い出」を語ることは、生きている人が主体になる。故人の話をしようとして

「あのときこういうことがあって……あれっていつのことだったかな?」

「あれ、あのときあの人は何て言ってたんだっけ?」

と話しても、「あれは○月だったよ」とか「私その時○○って言ったんだよ」とその思い出を補完する人はいない。当たり前だが、亡くなっているからだ。

だから、「あのとき私はこう思った」「あのときのことを私は今でも思い出す」という話しかできない。故人の話をしたいのに、「私」が出てきてしまうのだ。

 

色々な人が故人について話しているのを聞くと、色々な人の故人への思いを知ることができる。その思いで、故人の輪郭が徐々に見えてくる。しかし、そこに故人はいない。ただ輪郭だけが、「いないこと」だけがはっきりしていく。何年経ってもそれは悲しい。

ウォークマンの思い出

長年使っていたウォークマンがとうとう壊れてしまった。

 

どれくらい長く使っていたかというと、かれこれ10年ほどになるだろう。中学生の頃、両親が「クリスマスプレゼントにほしいものを考えておいて。何でも好きなのを買ってあげるから」と言うので、ウォークマンがほしいと言った。そうしたらなんと、「ほかのものにしてほしい」と言われてしまった。子どもながらに「言っていることとやっていることが違う」と違和感を覚えたが、口答えすると居場所がなくなる家庭(子ども部屋がなく、自分が作った気まずい空気の中で過ごすことになる)だったので、何も言えなかった。

代わりに、正月にお年玉をもらったあと、家電量販店に連れて行かれた。正月特価で安くなっているウォークマン。お年玉で買うならOK、ということである。それならクリスマスに買ってくれたってよかったじゃないかとやっぱり腑に落ちなかったが、ともあれウォークマンを手に入れた。色はセルリアンブルーにした。

それからというもの、勉強のお供に、外出時に車の中で流れる親好みの音楽が気にくわないときに、旅先でなかなか眠れない夜に……大活躍であった。音楽を楽しむほかにも、小さな音で音楽を流しながら寝たり、周囲の雑音をかき消してくれたり、退屈な時間をつぶしたりできた。

ウォークマンに関する思い出を探すと、必ず思い浮かぶ出来事がある。

中学時代、あまりにも数学の成績が悪いので、高校入試の模試の結果を親に見せると必ず、数学のことで怒られていた。模試の結果を受け取ったその日、偶然両親の帰りが遅く、居間には私一人しかいなかった。ふと「今日もまた数学の成績が悪くて怒られるんだろうなあ」と思うと涙が出てきた。数学の成績を悪くしたいわけではないし、それなりにがんばって勉強もしていたし、宿題もきちんとこなしていた。でも、父親は「お前だってやればできるはずだ」「自分も昔はできなかったけどがんばったらできるようになった」「お前の妹は数学できるんだからお前もできるはずだ」というようなことをものすごい剣幕でまくしたてる。あろうことか、かけ算の数字を書く順番が違っただけで激怒する、そのくせ、「親の顔色をうかがうんじゃない」と言う。もうどうしたらいいか分からなかった。

ウォークマンRADWIMPSのBY MY SIDE を聞いて、声を殺して泣いた。そのあとのことは覚えていない。たぶんまた怒られたんだと思う。でも、音楽を聞いている間は自分の泣いている声が聞こえなくて、いつもより情けない気持ちにはならなかったような気がした。

 

ウォークマンに関しては他にもたくさん思い出があって、一生懸命思い出そうとしなくても次々に思い浮かんでくる。また、使い込んだ電気製品に対する愛着に関して、他にも書いておきたいことがある。

時間がないので、今日はここまで。

何度も思い起こされる悲しみについて

親しい人を亡くした経験についての文章です。そのような内容を読みたくない気分の人は読まないでください。また、読んでいて悲しくなったり辛くなったりしたらすぐ読むのを止めてください。「他の人の悲しみに触れると、自分の感情や悲しみがちっぽけなものに思えてしまう・自分が薄情で浅はかな人間に思えてくる」ということが起こります。いつでも読むのをやめられるようにして読んでください。

 

親しい人を亡くしたあと、繰り返し考えた事柄がある。

・なぜ優秀なあの人が死に、価値のない私が生きているのか。

・あの人が生きていたら、自分がなんとなく過ごしている毎日をどんな風に役立てて生活していたのだろう。

 

それは決まって調子の悪いとき(体調が悪いとき、何か悲しいことがあったとき、自分がいまやっていることについて疑問を覚えたときなど)に思い出され、「あの人ではなく私が死ぬべきだった」「あの人が生きていたらこの時間をより有効に使うだろう」という結論に達して、泣くことしかできなかった。

 

親しい人を亡くしたとき、その人についての情報が周囲の人から自然と流れ込んでくる。高校生の私が大学生の姉を亡くしたときには、姉の友人から大学での様子を聞いた。いつも図書館に通っていて、周囲の友人も驚くほどまめに勉強していたそうだ。教授から借りていたという分厚い本を親が返しているのを見た。私はそれを聞き、見て、姉はとても優秀な学生だったことを知らされた。それに比べて当時の私は受動的に勉強に取り組んでいるだけで、勉強が面白いとか、学びたい内容に向かって努力するとか、そういうことができていなかったし、大学生になってもそんな学生になれる自信がなかった。

「姉は優秀な大学生だった」という1つの情報から、家族という身近な存在の知らなかった面を見せられ、さらにはとても優れた人物だったという強烈な光の側面を見せられてしまった。

故人について自分が知らなかったことを知ることができたこと自体は悪いことではない。それを知ったとき、ただちにショックを受けたわけでもない。しかし、時間が経つにつれて、(私の場合は故人との思い出などよりも鮮烈に)故人は自分よりも生きる価値があったのではないか?と突きつけられた。

 

数ヶ月前には、大学の同級生が交通事故で亡くなった。突然のことだったが、連絡が素早く行き届いたため、彼のお別れ会へ向かうことができた。彼は陽気で、人脈も広かった。いつも忙しそうにしており、大学という環境をフルに活用して学生生活を送っている人だったように思う。彼の周りにはたくさんの人がいたと思うけれど、一人一人の出身地や所属サークルを覚えてくれていた。彼のお別れ会に私が知らない人々が彼をおもって駆けつけ、悲しみに暮れているのを見た。

それから数日、目が覚めるとまず「彼が死んでしまった」という事が思い出され、胸が痛んだ。昼間、仕事の一環で細々としたことをやっているときや、仕事から帰ってお風呂に入ているときには泣いてしまった。自力ではどうにもならない、生きて行くには不要なことを悶々と考えるとき、「彼がもし生きていたら、この時間をどう使ったのだろう?」と考え込んでしまった。

 

姉についてのこういった感情は、姉が亡くなってから5年以上経った今ではあまり呼び起こされなくなってきた。もちろん、同じような感情(故人のほうが自分より価値がある、自分が死に故人が生きるべきだったという考え)をすることもあるけれど、「そういう感情を抱いてしまうものなのだ」と思うことにしている。これは万人に通用する解決策ではないし、これが正しいかどうかは分からないし、それを聞いたからといってすぐにそう考えられるようになるとは思わない。しかし、こういう風に何度も考えてしまうことはおかしいことではないし、感じること自体は悪ではないと思うだけでも少しは気が楽になった。

 

故人と自分の価値を比べてしまったり、やっと以前の思考に近づいてきたなと思ったのに、故人を急に何度も思い出すようになってしまった、「私は生きていても意味がない。死ぬべきだ(いなくなってしまいたい、私が死に、故人が生きていればいいのに)」「乗り越えられたと思ったのにそうではなかった。私は前に進むことができていない」と考えてしまっても、同じように考える人はここにもいること、そう感じることは悪ではないこと、それだけは覚えておいてほしい。

体をこわした・ケガしたときの思い出

インフルエンザが流行っているとのことですが、幸いかかっていません。大学に入ってから予防接種に行きそびれている割には大丈夫です。社会人になってから風邪を引くことが増え、ついに先日熱を出して病院に行きました、が、それでもインフルエンザではありませんでした。よかった。

 

小さい頃は病気やケガをしてばかりだったので、そういう思い出もたくさんあります。ケガや病気の話が出てきます。

 

◇体をこわしたときの思い出

 小学生一年生の時、胃腸炎に感染した。詳しいことは覚えていないが、夜突然吐いてしまった事だけは覚えている。人間始めて6年目なので、「気持ち悪い」とか「吐きそう」という感覚がどんなものなのかも分からず、翌日学校に送り出される前に「気持ち悪くない?」と母親に念を押されたときに勇気を振り絞って「気持ち悪いとは、どういうことか」と聞いた。「口の中が酸っぱくなったりするけどどう?」と言う。正直その通りだったが、朝の忙しい時間で焦っている母親を見ると何も言えず、大丈夫と言い張って学校に行ってしまった。案の定学校で体調を崩し病院行きに。まず親に小児科に連れて行ってもらった気がする。病院で診察を終えてぐったりしている私を、母親は背負って車へ向かった。私は「大変ですよね。ごめんなさい」と言った。母親が何と答えたかは覚えていない。数日家で休んだ気がするが、「何か食べたいものない?」と言われて果物を色々答えたら、買い物に行くついでに買えるだけそれらを買ってきてくれた。何を食べてももどしてしまうので食べられないのが悲しかった。

 重症だったからなのか、そのあたりも覚えていないが、入院することになってしまった。病院食に飽きて、「退院したらハンバーガーとおだんごと……」と食べたいものをひたすら父親に聞かせていた覚えがある。入院するときと退院するときにそれぞれ体重を量ったが、退院するときにはもともと少なかった(20kgなかった気がする)体重が1キロ減っていたことだけ覚えている。

 今は、胃腸炎で入院するって結構な大事だったのではないか、と思う。中学くらいから胃腸炎には全くかからなくなった。代わりに(?)双子の妹がほぼ毎年インフルエンザにかかっていた気がする。他にも歯やストレス性のあれこれにかかっていて気の毒だ。

 

◇ケガしたときの思い出

 小学生低学年のころ。自宅前にコンクリートで固められた場所(目の前に他家の畑があり、そこからコンクリートで固めた場所が50cmほど高くなっている。コンクリートで固められた場所は家に沿うように細長く、幅は1mほど。そのコンクリートの上に家が建っている)があった。妹とよくそこで遊んだが、畑とコンクリの段差はコンクリむき出しの角になっていて、母親に気をつけるようによく注意されていた。

 ある日、何のはずみだったのか、私は足を踏み外して(コンクリートの角の手前に右足をつこうとしたが、端すぎて足を滑らせてしまった)、右足のももの外側を大きくすりむいて畑に落ちてしまった。痛いし驚いたしで大声で泣いたのだが、駆けつけた母親に「ごめんなさい!」と大声で泣きながら謝った。「あれだけ注意しろって言ったのに何やってんだ!」と怒られると思ったからだ。母親に怒られた記憶はない。

 母親と一緒に駆けつけた姉は後日母親に「○○(私のこと)、落ちて一番最初に何て言ったと思う?ごめんなさいだよ!」と怒っていた。なぜ怒っていたのか未だに腑に落ちないが、姉は「ケガをした子どもを怒鳴りつける親ではない」と親のことを信頼していたのではないか、ということだけは推測できる。

 

 他にもケガの話はあるのですが、先日思い出したのはこの2つ。家族がいれば、自分の代わりに何か買ってきてくれたり、気にかけてくれたりするかもしれませんが、一人で病気と闘うのは辛いです。先日熱を出したときには会社を休みました。「今日仕事休んだから2度寝するぞ!」と寝たら、何回も悪夢を見て疲れました。

 体調をよくするに早く寝た方がいいことは分かるのですが、職場からの帰り道、坂道を登っている時など、無性に悲しくなってしまい、家に帰るとたくさんゲームをしてしまいます。早く寝られたのは風邪を引いていた間とその後2日間くらいです。寒い季節が早く終われば良いのにと思います。うまくまとまらないのでこの辺で。

釈然としない思い出の話

特定の思い出をたびたび思い出してはそのたびに辛くなっていくような気もするし、その思い出の影が濃くなると楽しかった思い出が薄らいでいくようで悲しいです。何度も思い出さないように、ここにちょっと書いておきます。

 

【けが】

・小学生6年生の時、彫刻刀を使った図工の授業中、指先にちょっぴり彫刻刀が刺さり血が出てしまった。私はちょっと抑えておけば大丈夫だろうと思っていたら、友達が動転して、先生に報告することなく私を教室から連れ出して保健室に無理矢理連れて行った。保健室で「先生に一声かけてから来なさい」と怒られたのは私。怪我した上に保健室の先生に当たり前のことを怒られるとは……と情けなくて泣きそうになった。戻ってきた先生にも両方悪いといわれ、彫刻刀は危険だという判断でその後彫刻刀を使った図工の時間はなくなってしまった。

 

【成人式】

・大昔、TVで振り袖のCMを見ていた父親が「やっぱり振り袖は赤に限る。赤が一番かわいい。その他の色やくすんだ色は年取ってからでも着られるけど赤はその時しか着られない」みたいなことを発言し、母親も同調していた。どの着物もきれいなのでは?と思っていただけに子供心にもショックだった。祖母から伝わっている振り袖は朱色で、当然私も赤い振り袖を着る(着させられる、着なければならない)と思っていた。

いざ成人式の前撮りをする事になった際、私が祖母の振り袖を着たら「なんか似合わない」と店員と母親から不評。私はよくわからなかった。妹が着てみると大絶賛。私は「どうして!?」と言ったけどなんとなく……みたいな返答しかもらえず。何が似合うの?といったら着たいのを持ってきてと言われたので持っていったがどれも不評。結局私が選んだ者ではない、くすんだ金色と紫色の振り袖になってしまった。小さい頃の振り袖の記憶が強く、赤以外の振り袖を着るなんて許されない、赤以外選ぶなんて非常識、と思っていた私は渋々着ることに。しかし、レンタルだったため、成人式の時だけだ……我慢しよう、と思った。当日「なんか凄みがある」「でも似合ってるよ」みたいな微妙な反応しかもらえず。後日、祖母から「あの振り袖買ってあげたから着てね」と言われる。私にはどんな着物が似合うなんて分からなかった。正直言うとあんな振り袖ほしくなかった。祖母に申し訳ない上に納得がいかない。

大学の卒業式にはその意趣返しで赤い着物に袴で出席した。友人が「赤。似合わないなんて事ないんじゃない」「かわいいよ」と言ってくれたのには救われた。親にも「成人式で赤着れなかったから卒業式では赤を着たのよ」とチクリと言っておいた。

 

この二つの思い出を思い出して昼間涙がこぼれた。昔のちょっとした嫌なことを思い出して、急に悲しくなったり、理由もなく「もうだめだ!」と思ってしまうことってありますか?私はあります。どうやら同じ嫌な思い出を何度も思い出して、一回できた傷を何度も刃物でなぞるように、思い出せば思い出すほど辛い思いが高まっていく気がします。でも思い出さないようにする方法が分からないので対策ができません。一回文章にすることで「アウトプットしたからもういっか」と頭が判断してくれたら良いなと思っています。