うらにわのリター

もう少し上手に生きたい(˘ω˘)

家族について

家族ってどういう存在なのだろうか。最近よく分からない。

先日帰省して家族と一緒に焼き肉屋へ行った。代金は親が払ってくれるという。最初は普通に焼き肉を食べていた私だったが、「遠く離れた場所にいて、別に愛想も良くなくて、他の人よりも出遅れているような奴に、なぜ食事をおごるのだ?」と考えた瞬間、食事が喉を通らなくなってしまった。

 

家族は生まれてから一番長い時間を一緒にした人たちだと知っているけど、それがどんな意味を持つのか。親がものすごく手のかかる時期に子どもという存在のためにたくさんのお金や時間を費やしてくれたということも分かる。

夜赤ん坊だった私を寝かしつけるのに、両親はとても手を焼いたという。というのも、膝枕していないと寝なかったからだ。しかも、膝枕をやめて横になって寝ようとすると、膝が動いたことに気がついて目を覚ますから、座ったまま眠ったことも何度もあったという。

小さい頃には怪我も病気もしたし、今になっても特に金銭面では大きく助けられている。上記の他にも、苦労をかけたエピソードはいくつもある。

 

このようなことはしばしば家族愛と呼ばれる。でもそもそも愛って何なんだ?知らないものについて深めようとするのは無理だから愛について触れることは避けるが、私は家族愛とはなんぞやと思わざるを得ない。

当たり前のことだけど、私が親に迷惑をかけ苦労をたくさんさせたように、親も私に酷いことを言ったり、人格を否定したりと、今でも許せないと思うような行動を何度もしている。親は私が原因で苦労したことを何とも思っていなくても、彼らの心ない発言を許すことは、今の私にはできない。互いに許し合っているなら家族愛で構わないけど、私は許せないのだ。許そうと思ったこともあったけれど、自分が強く嫌悪感を覚えた出来事を経験していないかのように振る舞うことはできなかった。

実家に帰省する直前になると、実家で経験した嫌なことを思い出して落ち込むことがある。嫌なことというのは、私が双子の妹よりも頭が悪いんだから努力しないとだめだと言われたことだったり、理不尽に叱られたのに、言い返したらどうなるか分からない、自分が黙っていればその場が丸く収まると思い込んで耐え続けたことだったりする。もはやこれは思い出とか許すとか許せないとかじゃなくて、いつもは抑圧されているけれど関係するものがきっかけとなってふっと思い出してしまう、トラウマに近いタブーの経験になっている。

嫌なことを言われたら言い返せばいい、怒ればいいという意見もあるだろう。その意見はもっともである。私の経験を思い出す限り、彼らは彼ら自身の発言が私を傷つけていることに気がついていない。それでも私は怒ることができなかった。どんなに酷いことを言われても耐えてしまった。私がそれに言い返せば、口論が発生する。子ども部屋さえない狭い家だから、もめた相手と嫌でも顔をつきあわせることになる。私が言い返した相手は機嫌をますます損ねるだろう。もめ事を発生させてしまったら、家の中に私の居場所はどこにもなくなってしまう(と思い込んでいた)のだ。

 

親なら、何をしても許してくれるとか、どこかで受け入れてくれるという自信が、私にはない。以前の記事にも書いたように、私の親は、例えるならば「なんでも好きなものを選んでいいよ」と言っておきながら、私の選んだものを知ると「それじゃないのにしなさい」と言うような親である。もしも「どんなことがあっても、あなたは私たちの子どもなんだから、見捨てたりなんてしない」と真摯に言われたとしても、私は信じられないだろう。彼らの「どんなこと」は、きわめて狭い範囲しかカバーしていないのだから。それから少しでも逸脱したことをした瞬間に、見捨てられるということの裏返しなのだ。

 

複雑な心情を書いていたらまとまらなくなってきたので今回はこの程度にしておく。

怒りのゆくえ

 お久しぶりです。今まで疑問にも思ってこなかったようなことが、一気に自分の中で理由付けができて解決することってありませんか。そういうことがあったので書きます。

 

 私の家族には、普段はものすごく人当たりが良くて優しいのに、突然怒り出す人が多い。性格が悪いわけではない。むしろ、普段から色々なことを考えて行動する、慎重でまじめな人ばかりだ(それがどう作用しているかは置いておいて)。

 なのに、突然些細なことで怒り出す。これは両親に顕著なので例を挙げておくと、髪の毛がじゃまだったので頭を傾けて前髪を整えたら、父親に「そんなに頭を振るんじゃない!」と怒られる、夕食後パソコンを使用しようとしたら「なんでいつも片付け手伝わないの!」と急に怒られる、等。最近は少なくなってきたが、小さい頃はよくびっくりして泣いたものである。

 

 最近自分の行動と照らし合わせて気がついたのだが、これは普段から細かいことでたまっている怒り(父親の場合、もっと髪を切った方が髪が邪魔にならないのに、とか、母親の場合、少しでいいから毎日食事の後は手伝ってくれないかしら、とか)が、ほんの小さな出来事がきっかけで噴出してしまっただけなのではないか。

 「それじゃ、嫌だなあと思うたびに相手に伝えて直して貰ったらいいじゃない」と考える人もいるだろう。しかし、本人達が怒りを我慢していることに気がついていないことも考えられる。友人とか知り合いに不満を離す、いわゆる愚痴というものにも表出してこないレベルの小さな鬱屈なのだから。

 何より、私の家族にはいい人であろうとする意識が強すぎる人が多い。相手に日常的に不満をぶつけるなんてもってのほかだろう。突然怒られる方が怒られる側である子どもとしては驚くし、何がきっかけになって怒られるか見当がつかず、萎縮してびくびく生活する羽目になるのだが。

 

 いい人が突然怒り出すとき、本人は積もりに積もった怒りを発散しているのだが、普段一切それが露見しないだけに、どれだけ困っているか・怒っているかが相手に全く伝わらない。相手は、迷惑をかけているとは考えた事もない行動に関して、ものすごい剣幕で怒られることになる。ものすごい剣幕というのも、相手が傷つく事なんてお構いなしに、自分の怒りだけを「私はこんなに怒ってる!」と振りかざすだけの怒り方である。

 この怒り方で、進路や成績について罵倒されたことも数知れず。成績のいい妹と比較されているように感じたことも数多く。大学に出てくるまではまったく萎縮して、「なるべく怒られないように!」と生きてきた。

 しかし、これは私が怒っている人の子どもだったから起こったこと。それが会社の同僚や、友人に炸裂したとする。彼らはきっと、萎縮すると言うより驚くだろう。怒られた周囲の人間は「なんでそんなことで怒るの?短気だなあ」とか「変な人~」と思うだけなのだ。

 

 では、日々積み重なる怒りをどうすればいいのか?

 私は、友人に事実あったことと思ったことを話すことと、自分の趣味とで発散することが多い。自分が違和感を覚えたことや、不快だと感じたことをそのままにしておくのはよくない。言葉にすると、自分が怒りを感じたことが他の人にどう受け止められているかを客観視できる。

 

 両親に趣味ってあったっけ、と振り返ったとき、趣味らしい趣味があると言えないことに気がつきました。趣味と言えばわたしたち子どもと旅行に出ることくらいです。でも、このことをどうやって彼らに伝えたらいいのか分からないのです。怒られるのは嫌だなあ……。

お金とストレス解消について

お久しぶりです。内定が出なくて本当に焦っています。

6月中に一つでも記事を書きたいと思っていたのですが、全然考えがまとまらなかったです。

それと、今すんでいるところは騒音がひどいので引っ越すことにしました。忙しすぎて「よく分からない」と丸投げしたいと思うことがたくさんあります。

今日は何をするにも必要なお金の話を書きました。

 

お金を支払って何か欲しいものを手に入れることは、結構なストレス解消になる。たいてい、心から本当に欲しいものは買うかどうか迷ったり、額が大きかったりするものだ。その迷いを乗り越えてほしいものを手にすると大変な達成感があるし、大きな額のお金を一気に使う高揚感なんかは非日常である。支払いは一瞬だが、その一瞬が手に汗握るクライマックスなのだ。

 

中高生でいた頃は、親に怒られたり、勉強がうまくいかなかったりするストレスを、金銭を使うことで解消していたように思う。その頃からアニメやゲームやその関連グッズを集めることが好きだったから、たまの休日にアニメグッズの店に行っては、目をつけていたグッズとか、友人へのお土産と称して箱入りのお菓子なんかを買って帰った。一度の会計で英世が7~8人出て行くような買い物をした。家族から、そんなものに金を使うのはやめた方がいいと言われたこともあったが、それはやめられなかった。当時から、7~8英世使うような買い物で、自分がストレスを解消しているという自覚が、薄らとあったからだ。

 

ところが、最近は感覚が変わってきた。就活で遠出を繰り返し、それに伴う出費の頻度が以前とは比べものにならなくなった。交通費とちょっとした食費を合わせると、結構な額を使わざるを得ないのだ。今もアニメやゲームやその関連グッズは好きだし、逸れ関連のコラボカフェやイベントに足を運ぶことは多い。そこで購入する物は本当に心からほしいと思っている物だし、買うかどうかきちんと自分の中で結論が出た物だけだ。なのに、なぜか罪悪感がある。「こんなものにお金を使っていてはだめだ」と思うことがある。欲しいものが手に入ったはずなのに、その喜びを感じないときさえある。

 

忙しくて、今までのように充実感や達成感を感じられていないだけだろうか。生活に欠かせない物を購入するときにも罪悪感を感じることがある。どうにかしてこんな風に感じないようになりたい。

感情の表出について

4月には3月よりも多く更新しようと思っていたら、あっという間に終わりました。ご無沙汰しております。

 

先日、「うつになりやすい人の特徴」を知りました。鬱に陥ったことのある自分の経験を踏まえると「全て自分でしないと気が済まない」「完璧主義である」「気落ちしている・周りと同じ振る舞いができない自分が許せない」というものが顕著だと思っています。(ここでは、医師の診断を受けていない、うつ病によく似た症状のこともまとめて「鬱」と表記します。)

ところで、私には妹がいます。同居していないのですが、GWを利用して私の住んでいるところへ遊びに来てくれました。

 

私の妹も軽い鬱状態に陥ったことがあるのですが、そのことを進んで私に話してくれることはありませんでした。彼女がそのような状況に陥っていると知ったのは、彼女と母親の会話を通してでした。

彼女の場合、自分がしたことを批判されるのが怖くて、知り合いに会ったり、外に出られなくなったりしたようです。私も妹も一応の進学校に通っていた「いい子」だったので、周囲から欠陥を指摘されるのが恐ろしいというのは当たり前で、また優等生的な落ち込み方だと思います。

 

彼女が鬱になったのは私が鬱に陥り、そして脱却した後だったので「なぜ私を頼ってくれなかったんだろう」という気持ちになりました。理由を直接訪尋ねてみたところ、「人に弱みを見せたくないと思っていた」だそう。とはいえ、彼女が悩みを話す人は彼女の近くに数人いたようです。家族であり、鬱をすでに一回経験した人間が近くにいたのに、頼ろうという考え自体思い浮かばなかったと言っていました。

 

鬱に陥りやすい(陥っている)人の特徴として、自分の本音を打ち明けない、ということも挙げられる気がします。周りの人が難なくこなしていることができなくて辛い自分は間違っているとか、今まで通りに頑張れない自分は正しくないとか、感じているような気がします。実際、鬱から脱却した後、自分は周囲からの目をある程度気にしないと切り捨てて、自分の感じたことを口にすることで、だいぶ楽になりました。

仲の良い友人と一緒に行きたいと思っていたお店が、いざ訪れてみたら閉まっていた時に、私は「くやしい!」と思わず大きな声を出しました。友人は「そんなにくやしかったの?」と苦笑しながら受け入れてくれました。

これは小さな出来事の例ですが、周囲の人間は、自分がどのように感情をあらわそうと、ひどい中傷や暴言を言わない限り、大抵は受け入れてくれると思います。鬱に陥ってから「自分の感情に素直になれ」と言っても実行するのは難しいですが、日ごろから感情のガス抜きをするのは案外簡単で、意外に大事なことだと思います。

 

誰かに具体的な不満や苦しさ、辛さを直接話すことに限らず、日記やブログにあらわすことも、感情表現の一つだと思います。私も、感情をためこまないために、頭の中だけで独りよがりな結論に至らないために、このブログを書いています。

直接感情を表現するのが苦手でも、様々な方法で、感情の発散ができます。

手遅れにならないうちに、自分に合った方法を見つけるのが一番だと思います。

親しい人を亡くすということ

少し前から故郷へ帰省しています。帰省のついでに、両親と妹と一緒に旅行にいってきました。
日本海が見える旅館に泊まり、夕方はよにんで海岸の貝殻を拾って楽しみました。
今回は旅行をきっかけに呼び起こされた、亡くなった大切な人に対する感情の話です。

私には姉がいました。4つ上で、思春期には邪険にされたりもしましたが、大学に進学して一人暮らしを初めてからは、当時高校生だった私と妹をよく気にかけてくれていました。
姉は私が高校二年生の時に亡くなりました。彼女は4歳の頃からⅠ型糖尿病を患っており、内臓がだいぶ疲弊していたようです。

Ⅰ型糖尿病については、ここでは詳しくお話ししませんが、ぜひ検索して調べてください。ここから先の糖尿病についての話は、私の個人的な知識に基づいて書かれたものです。間違いがあるかもしれません。
糖尿病を簡単に言うと、食事後に上昇する血糖値を下げるホルモンが出なくなる病気。Ⅰ型糖尿病は、生活習慣や年齢に関わらず、それが突然発症してしまうものです。

そんな訳で、姉は一人暮らしの最中に亡くなりました。もちろん当時は(詳しく書きませんが)とても悲しくつらく感じました。ですが、数年たった今では、親しい友人にそれを打ち明けることも少なくありませんし、話しているときにつらいと感じることもありません。「自分について知っていてほしいこと」のうちの一つになったのです。
そうなったと信じていました。

昨日、入浴しながら旅行について思い出していました。どんな観光地より、私には貝殻拾いが何程楽しかったので、私はふとその情景に姉を配置してみました。小学校の遠足に熱を出した友人が来られなかったときのように、「彼女がいたら、私たちがこんなことではしゃいでいるのをどう見るだろう?一緒にはしゃいでくれるだろうか?それとも呆れるかな?」と考えてみたのです。
しかし、その考えは展開しませんでした。というのも、先の問いに全くもって答えがでなかった、つまり「彼女の生前の行動パターンからして、こういう行動をとりそうだ」と、予測することができなかったのです。

私は姉を忘れたのだ!と思い至りました。同時に涙が出てきました。
私は人生の半分以上をひとつ屋根の下で過ごした人を、なんの抵抗もなく忘れてしまう。それはとても無情な行いに思えます。思い出の概要は思い出せても、姉の歩き方や声は浮かばない。覚えていることと言ったら、夏の暑い日に自分のコップに氷を山盛りにしてパソコンの横に置き、ネットサーフィンをする丸まった背中くらいです。
忘れられた姉は、海岸で私たちの輪に混ざれず、遺影の額縁のなかで微笑んでいるだけでした。

忘れられた故人がかわいそうだというわけではありません。(故人の意図や気持ちを勝手に予想するのは、生きている人のエゴだと思っています)長い時間を共に過ごしてきた人間を、あっさりと、自分の生活で覚えなければならないことを優先させ、忘れてしまう、自分に腹が立ったのです。それをどうしようもできないこと、気がつかないうちにここまできてしまったことが悲しかったのです。

親しい人を亡くした人には、こうした経験をした人もある「かもしれません」。この事情は簡単ではなく、個人個人で経緯が異なるので、一概に「親しい人を亡くした人はこういう経験をする」とは言い切れません。
でも、そういう経験をした人は、時間がたって元気になったように見えても、一言で言えない複雑な思いや気持ちが入った箱をずっと持っているように思います。自分でも分からないタイミングで(夢に故人が出てくるとか、私のように)それが開いて、どうしようもない気持ちになるのではないかと思います。

箱とその人の関係に他人が入る余地はありません。というのも、本人が箱の存在に気がついていないことが多いからです。箱とは、完全に個人で向き合っていかなければならないのです。

長々と書きましたけれど、人がなくなるということは大変なことですね、同じ境遇であっても立ち入ることはできないし、本人もその大変さに気がついていないこともありますね、という話でした。
箱がまたいつか開いたら、その話を書くかもしれません。

長所と短所 いいところとわるいところについて

就職活動に出遅れた私も本格的に忙しくなってきました。忙しいだけに、毎日感じたことを素直にアウトプットしていこうと思っています。今回は長所と短所についてです。(必死にまとめましたが、眠いので文章がちらかっています。)

 

誰しもいいところと悪いところがあります。就職活動に際して、面接で聞かれることがあるとも聞いています。

 

私の悪いところ・短所は、「自分を過小評価しがちなところ」「誰かに頼ろうとしないところ」だと思っています。前者は「私は多くのことを求められている」という幼少期からの思い込みが原因、後者は両親から「簡単に他人に頼るんじゃありません」と何度もしかられたことが原因だと思っています。私の悪いところは親の育て方のせいだと考えることが多いのですが、悪いところの原因すべてが彼らにあるわけではありません。もう一つ、「悪いところの原因を親に求めようとする」というのも挙げられるかもしれません。

でも、その短所もいい方一つで印象が全く変わってきます。「自分を過小評価する」なら「謙虚に物事を考えられる」、「誰かに頼ろうとしないところ」なら「まず自分の力で解決できないか挑戦すること」と言えば、前向きな印象に変わります。物は言い様ですね。

 

それでも、大学生活をしているなかで半年ほど、ひどく落ち込んだせいでほぼ学校に行くことができなくなった時期があることと、アルバイト経験がないことは、どう頑張ってもポジティブな捉え方ができていませんでした。言葉を変えても全然印象が変わりませんし、周囲の友人は皆アルバイトの経験を積んでいて、働いていない私は少数派でした。

 

「アルバイト経験がない」なら、そのほかの何に打ち込んだのか?「学校に半年間行っていなかった」なら、その期間何をしたか?学校に半年間行かないなんて普通の人はしないから、そこを掘り下げるといいよ、とある人に教わりました。

 

大げさですが、大学生活中何をしても、誰に相談しても変わらない現実を肯定され、救われた気持ちです。

半年間学校に通っていなかったことが両親に知られた時には、頭ごなしに怒鳴られましたし(理由を説明しろと言われました。その時は自分の中で整理がついていなかったし、その親当人について悩んでいたので、それを言ったら何をされるか分からないと思うと怖くて、黙ってしまいました。親も私も不器用なのです)、アルバイトについては半年分の単位を取り返す方が大事でしたので、興味があっても手が出ませんでした。

 

自分は何も持っていないと思っていたのに、後ろめたい経験が文字通り、この先立ちはだかる敵やライバルを打倒する「武器」になった、それが今はとても嬉しいです。

食わず嫌いについて

ご無沙汰しています。身の回りの出来事が忙しく、ブログの更新をしようと思いつく暇さえありませんでした。今回は食わず嫌いについてです。

 

私の家族、特に両親は、「流行ものに乗らない」という意地を持っていました。

本人たちが宣言している訳ではありませんが、彼らが好んでいた漫画が有名になった途端に買わなくなったり、「有名にならなければよかったのに!」と溜息をついていたりしました。最近は彼等も歳を取って丸くなったのか、有名な漫画を「面白いんだって」と突然買ってくることもありますが。

とにかく、昔は「自分の好みにぴったり当てはまる、自分が支えていることが実感できるもの」しか、応援しようとしませんでした。

 

そんな両親のもとで育ったためか、小さい頃の私も、流行に対しては冷たい視線を向けることが多かったのです。洋服しかり、ゲーム(家ではさせてもらえませんでしたけれども)しかり、遊び方しかり。流行っているものは大したものではないと思っていましたし、その流行に乗る人達のこともひっそり馬鹿にしていました(ほんとうです)。

 

私が流行に乗る、流行のものを知ることに対して前向きになったのは、大学生になってからでした。某かたな擬人化ゲームがリリースされて莫大なユーザーを獲得していることを知り、そんなに多くの人がプレイしているのなら……と、ちょっとした冗談のつもりで始めてみたのです。大学でそのゲームの話をしてみたところ、なんと自分の周りにはそのゲームのユーザーが3人もいたのです。

その3人とは同級生でした。以前から互いに全く知らなかった訳ではなかったので、4人でゲームの話をするようになりました。それがきっかけで、それぞれの好きなジャンルの話をするようになったり、一緒に出かけるようになったりして、今では一緒に就活の合間に焼き肉食べたり鍋食べたりDVD見たりHulu見たりする、いい友達関係になりました。

 

流行に少しでも乗る、流行を知っていることで、人の輪は確実に広がります。今まで知らなかった誰かと、大切な関係を築くことができるかもしれません。

「私は自分で認めたものしか好きにならないし…」とか、「たくさんの人がやってるからって自分も手を出すなんてちょっと…」と思っていると、貴重なチャンスを逃す羽目になるかもしれませんね。

 

流行っているものを好きになるかどうかは置いておいて、流行り物に注目する、とりあえずちょっとだけ食べてみる。それは、全く悪いことではないと思います。