うらにわのリター

もう少し上手に生きたい(˘ω˘)

お久しぶりです。

一人で引っ越しするのは二回目で、手続きには慣れている筈なのに、相変わらず手間取って、免許の住所変更が最後になるという事態に陥りました。各種証明が面倒。なんでや。今度引っ越すときに困らないよう、今回の引っ越しでどれだけ困ったか、何をどの順番ですべきか、必要な書類は何かをリストアップしておこうと思います。

 

引っ越しをしたと書きましたが、そうです。引っ越しました。環境はもちろん、天候や地形まで違うので困ることが多いです。知り合いがいないので寂しいです。

引っ越し先で新しい人々に色々なことを言われて驚いているのですが、本格的に色々言われるのはこれからだと思うので、今は書かないでおきます。ここには、少し前に起こったちょっと衝撃的だった事について書いて残しておこうと思います。

 

学生時代、友人とよくカラオケに行きました。カラオケ店の近くにはコンビニと牛丼屋があり、よく夕食やお菓子を買いに行ったものです。

牛丼屋には本当によくお世話になりました。カラオケに行ったとき夕食としてテイクアウトしたり、友人に買ってきて貰ったり、故あって早朝に友人二人と足を運んだり。私は決まっておろしポン酢の牛丼を食べました。私には牛丼のご飯が少し多く、汁が沁みたご飯だけが残ってしまうことがありました。そんなとき、ポン酢のしみこんだおろしがあると、元々ポン酢の酸味が好きであることも加わって、ご飯をさっぱり食べきることができました。テイクアウトしたら、おろしだけついてきてポン酢がついてこなかった!なんてこともありましたが、友人にポン酢を借りて食べました。ポン酢以外にも、しっかり煮込まれてくたくたになっているタマネギも好きでした。もちろん牛肉も好きでした。私の中の牛丼と言えばおろしポン酢牛丼であり、思い出の多い牛丼でした。

 

さて、私が今の住所へ引っ越してきて数日経った頃。なんと、近くに牛丼屋があることに気がつきました。学生時代お世話になった牛丼屋とは名前が違うお店ですが、似た雰囲気だろうと考えた私は、自転車で出かけ、夕食をそこで買ってテイクアウトすることにしました。

 

家を出た私は、大学近郊との違いに愕然とします。夜も外食帰りや飲み会帰りの学生が通行していた大学近郊と比べるまでもなく、人気が全くない。車は走っているものの、歩行者や自転車で出歩いている人はまずいません。道路の両脇の店舗はほぼ閉店済み。静かで薄暗い道です。私は怖くなりました。慣れない土地で、スマホの地図を頼りに自転車を走らせます。

私はなんとか牛丼屋にたどり着きました。いざ店に入ってみると、食券を買う機械がないことに気がつきます。この牛丼屋は、お店で食べていく人が席に着いて注文する、という方法で注文を受けるようです。テイクアウトを待つ場所もほぼありません。レジで店員さんにおろしポン酢の牛丼を頼もうとしますが、食事を終えたお客さんの精算を店員さん一人で行っています。さばくのに時間がかかりそうです。客層も大学の周囲とは異なり、若い人はほぼいません。男性が圧倒的に多いように感じました。テイクアウトの注文がしづらいと感じた私は、今まで夜道を走ってきた緊張がさらに高まっていきます。

さらに、私の前に一人テイクアウトの注文をしようとしている人がいました。よく見ると、小学生くらいの男の子です。何を注文するんだろうと思いきや、数人分の色々な牛丼をまとめて注文しています。学生時代に利用していた牛丼屋では、こんなことはありませんでした。その子の受け答えは、大人のようにしっかりしています。大学周辺の店舗で、若い人が利用していたのなら、「私と同じような大学生だろう」と予想がつき、なんとなく安心できたのですが、当たり前の事ながら、今の私にはその子の事情が全くもって予想できません。「ここはどういう土地なんだ!?」私は混乱します。

ようやく私が注文できる番になりました。注文自体はスムーズに行うことができました。しかし、私の注文は男の子の注文の後ですから、私の注文分の牛丼が出てくるまでに少し待つことになりそうです。私は、入り口の狭いスペースで、精算を済ませるお客さんの邪魔にならないよう、隅に身体を寄せて腕を組んで待ちます。

その間、男の子もずっと私の近くで待っています。私は先ほどと同じように、この子がどんな事情でここにいるのかずっと考えていましたが、それを簡単に受け入れられない自分が失礼なような気もして、複雑な気持ちになりました。

 

そうこうするうちに、男の子が牛丼を受け取って出て行き、私も自分の牛丼を受け取って店を後にしました。

帰り道、先ほどと同じように、薄暗い夜道を帰ります。自転車に乗りながら考えます。大学の近くの牛丼屋では、服装や持ち物から、周囲の人がどんな人か、だいたい予想がついていました。ところが、新しい土地ではそうはいきません。大学生が少数派であることは間違いありません。加えて、若い人の方が珍しいような地域です。

周囲に知らない人がたくさんいる。自分は、その人々の人生や、今彼らが自分と同じ場所にいる事情を予想することさえできない。当たり前のことです。しかし、自分と同じような人がたくさんいる地域にいては、それを実感することはほとんどなかった。それ故に安心して、一人で出歩いたり、買い物したりできていた、ということがはっきりと感じられました。

 

薄暗い夜道は、なんだか現実感がありません。今までとは勝手が違うのだと実感して、急に孤独感が強まり、まるで悪い夢を見ているような気持ちになって、家に急ぎます。

 

家に帰って、牛丼を食べました。

いつものおろしポン酢牛丼だ!と思って食べます。ポン酢の容器が違います。なんだかちょっと香りも違う気がします。違うお店なのでそれくらいは仕方ありません。いざ牛丼を食べてみると……。タマネギがシャキッとしています。くたくたしていません。ポン酢の味も違います。カラオケの時に食べた味ではありません。友人と早朝に食べた味でもありません。これは「私の中のおろしポン酢牛丼」ではない!ああ、ここは今までとは全然違う土地なんだ……もうあの牛丼屋は、ここにはないのだ……そう思うと涙が出てきてしまいました。

一人で泣きながら牛丼を食べました。

 

これからも、すぐに心を許せる人間を見つけることは難しいと思うので、直接会える人間のうち誰にも話せない!ということが色々出てくると思います。そのたびに自分の中で整理するためにも、誰かにちょっぴり見て貰うためにも、ちょくちょく更新していこうと思います。「フーン」って見守って貰えたら嬉しいです。

帰省の時期

お久しぶりです。就活以上に大変なことが立て込んでいて忙しかったです。

それを完成させなくてはならない日には二日?三日?くらいシャワーを浴びておらず数時間のみの睡眠時間で、限られた時間を使い切りできるだけいいものにしようとあがいておりました。

完成したものはゴミみたいなものかもしれないですけど、友人たちと交代しながら部屋を出し合って作業環境を必死で整え、ボトル入りのガムとミカンを貪りながら、結果を良くしようと頑張った過程は、何物にも代えがたいような気がします。

 

年末が近づき、帰省の話をすることが増えました。私は、帰省することに前向きな気持ちになれません。帰省すると、一人暮らししている先でいるときとは違う自分になってしまうような気がするからです。

この記事は、自分の過去の経験の話を、整理を付けるために書いたものです。不快な気持ちになったら、何か言う前に読むのをやめてくださって結構です。

 

最近は忙しいことを盾に家族との連絡を絶っていたのですが、つい二週間くらい前母親からこんな文面の連絡が来ました。

「あなた、この進路で大丈夫なの?あなたの気持ちが心配です。」

というのも、母親に「高校生くらいの時に芸術関係の進路を選びたいと思ったこともあったけど、父親があまりにも絵画や音楽に対して馬鹿にした態度を取るので、とてもじゃないが言い出せなかった」と打ち明けたからなのです。母親は、純粋に私の将来と気持ちの整理がつかなくなることを心配して、この連絡をくれたのだと思います。

 

しかし、私はこう思ってしまったのです。この連絡が届いたのは、私が卒業後の進路を彼女に連絡してから四ヶ月も経った後。加えて、芸術関係の進路に進みたかった云々、と告白したときは、「具体的な目標は何かあるのか?ないなら話はできない」と話していたのです。

それを聞いた私は一理あると納得し、とりあえず芸術系にこだわらず進路を決めようと考えていました。芸術系の進路に進むにはそういった分野の学業を修める必要もあるし、芸術系の学校を出たわけでもない私が、突然芸術系の進路に進んだからと言って、私の想像通りの仕事ができると決まったわけでもない。彼女の言葉を聞いて四ヶ月経った今では、「とりあえず一般的な仕事に就いてみることが大事かも知れない」という結論に、何の異論もなかったのです。ですから、彼女に、芸術系の進路に進むことはやめた、等という連絡もしませんでした。経験則から、彼女は私の「芸術系の進路に進みたい」という発言を好ましく思わなかったから、それらしい事を言ってそれ以上私に発言させなかったように思ったからです。

 

ところが、今頃になって「その進路で良いの?」という連絡が来た。彼女が何をしたいのか、私には全く分かりません。私にとっては、あきらめがついた頃に、やっぱりどうしよう?ほんとに大丈夫?納得できるの?と聞かれたようなものなのです。後出しじゃんけんみたいなものです。

 

昔から、私が思っていたことが裏切られると言うことは、多々ありました。(親子間のコミュニケーションがうまくいっていない家族のことですから、あくまでも私が『思っていただけのこと』が裏切られたと思ってください。互いに互いの本心を話さない家庭で起きたことです。)

私が毎週仮面ライダーを録画して、楽しみに見ていたら、父親が私がいないところで、それを親戚の前でバラして笑いものにしていたこと。「学費がかかるから、学費が安い大学に進学してくれ」と頼まれ、その通りの学校に合格したら、「なんだ、合格できるんだったら私大でもよかったじゃん」と笑いながら言われたこと。

美術の授業で絵に自作の詩を入れて製作する機会があり、「世の中いろんな事があるけど真夜中一人でテトリスやってる私には関係ねえな、でも救急車のサイレンが聞こえる」という趣旨の詩を書き、テトリスのプレイ画面っぽい絵を描いたら、学年主任でもあった美術の先生が、それを卒業文集の裏表紙にしてくれた。先生から、「あなたの娘さんの絵を卒業文集の裏表紙にしました」というお便りを受け取り、卒業文集と一緒に母親に見せたら、「あの裏表紙、あなたの絵じゃないんでしょ?先生の間違いでしょ?そうなんでしょ?」と言われたこと。

 

父親がそうしていたとき、私は布団の中で声を必死に抑えながら泣きました。面と向かって言い返すことはできず、ただ絶句しました。母親にそう言われたときは、酷くショックを受けながら「そうだよ、あれ私の絵じゃないよ」と答えました。母親は安心したようでした。

父親に怒れませんでした。時間が経ってから、「進学先をそんな風に言うなんて酷い、後から言うのはずるい」と言いましたが、声も小さかったし、どれだけ伝わったか分かりません。母親にも「ひどい!」と言えませんでした。彼らが予想していないことをしたとき、どんなことが起こるか知っていたからです。(絵の件に関しては後々手紙で謝罪を受けましたが、それっきりでした。母親の中では、謝ったことで終わってしまった出来事なのでしょう。私は今でも、このことを思い出すと声を上げて泣いてしまうほど、心に大きな爪痕を残した悲しく悔しい出来事なのですが、母親はそうとは思っていないのです、全く。私が、ひどい!と言えなかったからなのでしょうが)

 

時は、姉が大学進学の進路を選んでいたときにさかのぼります。大学選びをしていた姉は、宗教関係の学部を見つけ、進学したいと考えたようです。彼女は両親に相談しました。彼らはそれをもちろん受け入れるだろうと思いました。しかし、父親はそれを却下しました。宗教=危ない、という印象があったようです。今までブログに書いてきたように、両親は姉にも「やりたいことならなんでもいい、あなたのやりたいことをしなさい」と教育してきたはずです。彼女は大層怒りました。主に父親と激しい口論をしました。結果として彼女は父親に折れ、日本文化を研究する学部に進学しましたが、以来、父親との仲は険悪なものになり、彼女はアパート選びや家具選びなど、様々なところで意固地になって自分の意見を通そうとして、何度も父親と衝突するようになりました。

子ども用の部屋がなかった私の家では、彼女と父親の口論は常に居間で行われました。口論が始まったとき、私はいつも身体が硬直して、そこから動くことができませんでした。逃げる場所はトイレと決まっていて、誰かが入ろうとすれば出なければならない場所でした。完全に引きこもれる場所はなかったのです。

激しい言葉は私に向けられたものではないと分かっていたけれど、お湯が沸騰するように突然激昂する父親と、普段決して見せない頑固な面を見せ、父親に反抗する姉の姿も恐ろしかったですし、何より、その後の冷たい雰囲気が怖かったのです。口論をした後の家族の雰囲気は、とげとげしいものでした。そして、その雰囲気から逃げる場所は、どこにもありませんでした。私はトイレで口論が終わるのを待つしかありませんでした。私は思いました。私はこんな雰囲気を作ることはするまい、私が我慢すれば全部丸く収まるなら、全部我慢しよう。と思いました。

 

私が大学受験をする頃になると、父親は私に対して怒るようになりました。双子の妹が成績良好で、父親が数学を努力で克服したのに対して、私は数学がびっくりするほどできなかったのです。父親は、私が数学の課題をするところを、盗み見ました(父親がいるのも居間、私が勉強をするのも居間でした)。そして、私が書いたものが父親の思ったものと違うと、突然大きな声で怒られました。母親がかばってくれることもありましたが、基本的に私は黙ったまま怒られていました。泣くことはありましたが、言い返すことはありませんでした。身体が硬直して、下を向いたまま何もできなくなるのです。何か言ってみろ!とか言われますが、小さな声で「はい」と返事するのが精一杯です。父親が怒り出すのは嵐みたいなものでした。私がどうにかできるものではないと思っていました。怒られた後は決まってトイレに逃げて、手に竹串を刺したり、噛みついたりして、自傷してつらさに耐えました。

 

そんなわけで、帰省すると、「一人暮らしをしていて、気の合う友人がいて、好きなことを好きなようにやる自分」ではなくて、「親の前では彼らの思惑どおりに動き、我慢し、温かい雰囲気を保つ自分」モードになってしまう、ということが最近やっと分かりました。一人暮らししている時には、家族と摩擦が起きないように、という配慮は全然ありません。仮面ライダーに限らず、好きなゲームのキャラクターのグッズを飾れるし、部屋がないからと遠慮して買わなかったポスターも、自分を笑いものにする親がいないから、心置きなく買って貼れるし、家が狭いからと言って呼ばせて貰えなかった友達も呼べる。自分を否定してくるような親に見せたくなかった絵も、いつでも自由に描けるのです。そんな状況から帰省したら、違う自分になるのも至極当然のような気がします。

 

近頃、友人に親のことを相談してみたところ、一回言い返してみたらいいと言って貰えました。もちろんそうなのです。父親には面と向かって強い態度は取れませんが、文章ならなんとか対話できます。ラインの文章だけで、親を説得したこともあります。

 

ただ、私はもう両親とのつきあいに疲れているのです。希望を持てないと言っても良いかもしれません。私が思っていることを言ったところで両親は私を理解しないだろう。それどころか、両親のいいように歪めて解釈されてしまう恐れさえあるのです。

それは人間関係において普通のことかも知れませんが、このかた十数年、本当の気持ちを見せてこなかった相手に、ずっと萎縮してきた相手に、それができるでしょうか?

「裏で自分は笑いものにされているのだから、本当に好きなものの話は、あいつの前ではしてはいけない」「口では自分の作品を褒めていても、心の中では、こんなものを作って欲しくないと思っているのだから、その言葉を本当だと思ってはいけない」と自分に暗示をかけ続けてきた私には、「話せば分かって貰えるはずだ」という簡単な信頼すら、難しくなってしまったようです。

 

そうとはいえ、自分の「分かって貰えないと思っている」という気持ちすら、言葉にしないと伝わらないという事実があります。直接対面して伝えるのではなくとも、何らかのかたちで伝えなければ、私の気持ちは変わらないでしょう。今回の帰省で、何か伝えようと思っているのですが、この文章を書くだけでも泣くのを我慢できなかった私ですから、うまくいくか分かりません。直接対面して伝えるのは、途中で取り乱してしまうと思うので、文字で対決しようと思っていますが、全然理性的に書けません。

 

帰省が近づくこの時期、毎日と言って良いほど、真夜中に、両親絡みの辛い出来事を思い出してしまいます。こういう経験もトラウマと言っていいものなんでしょうか?一つ一つの出来事はありふれていますが、それが一人でいるときに突然甦って、泣き出してしまうことが多々あり、困っています。

私はどうしたらいいのでしょう?

こんなこと一つ決められない自分が、情けなく、ふがいなく、また、親に望まれている姿そのもののようでもあり、嫌悪感を覚えます。

ここ数日は特に忙しくて、それを文字にする時間すらありませんでしたので、とりあえず記録にして残しておきます。

家族について

家族ってどういう存在なのだろうか。最近よく分からない。

先日帰省して家族と一緒に焼き肉屋へ行った。代金は親が払ってくれるという。最初は普通に焼き肉を食べていた私だったが、「遠く離れた場所にいて、別に愛想も良くなくて、他の人よりも出遅れているような奴に、なぜ食事をおごるのだ?」と考えた瞬間、食事が喉を通らなくなってしまった。

 

家族は生まれてから一番長い時間を一緒にした人たちだと知っているけど、それがどんな意味を持つのか。親がものすごく手のかかる時期に子どもという存在のためにたくさんのお金や時間を費やしてくれたということも分かる。

夜赤ん坊だった私を寝かしつけるのに、両親はとても手を焼いたという。というのも、膝枕していないと寝なかったからだ。しかも、膝枕をやめて横になって寝ようとすると、膝が動いたことに気がついて目を覚ますから、座ったまま眠ったことも何度もあったという。

小さい頃には怪我も病気もしたし、今になっても特に金銭面では大きく助けられている。上記の他にも、苦労をかけたエピソードはいくつもある。

 

このようなことはしばしば家族愛と呼ばれる。でもそもそも愛って何なんだ?知らないものについて深めようとするのは無理だから愛について触れることは避けるが、私は家族愛とはなんぞやと思わざるを得ない。

当たり前のことだけど、私が親に迷惑をかけ苦労をたくさんさせたように、親も私に酷いことを言ったり、人格を否定したりと、今でも許せないと思うような行動を何度もしている。親は私が原因で苦労したことを何とも思っていなくても、彼らの心ない発言を許すことは、今の私にはできない。互いに許し合っているなら家族愛で構わないけど、私は許せないのだ。許そうと思ったこともあったけれど、自分が強く嫌悪感を覚えた出来事を経験していないかのように振る舞うことはできなかった。

実家に帰省する直前になると、実家で経験した嫌なことを思い出して落ち込むことがある。嫌なことというのは、私が双子の妹よりも頭が悪いんだから努力しないとだめだと言われたことだったり、理不尽に叱られたのに、言い返したらどうなるか分からない、自分が黙っていればその場が丸く収まると思い込んで耐え続けたことだったりする。もはやこれは思い出とか許すとか許せないとかじゃなくて、いつもは抑圧されているけれど関係するものがきっかけとなってふっと思い出してしまう、トラウマに近いタブーの経験になっている。

嫌なことを言われたら言い返せばいい、怒ればいいという意見もあるだろう。その意見はもっともである。私の経験を思い出す限り、彼らは彼ら自身の発言が私を傷つけていることに気がついていない。それでも私は怒ることができなかった。どんなに酷いことを言われても耐えてしまった。私がそれに言い返せば、口論が発生する。子ども部屋さえない狭い家だから、もめた相手と嫌でも顔をつきあわせることになる。私が言い返した相手は機嫌をますます損ねるだろう。もめ事を発生させてしまったら、家の中に私の居場所はどこにもなくなってしまう(と思い込んでいた)のだ。

 

親なら、何をしても許してくれるとか、どこかで受け入れてくれるという自信が、私にはない。以前の記事にも書いたように、私の親は、例えるならば「なんでも好きなものを選んでいいよ」と言っておきながら、私の選んだものを知ると「それじゃないのにしなさい」と言うような親である。もしも「どんなことがあっても、あなたは私たちの子どもなんだから、見捨てたりなんてしない」と真摯に言われたとしても、私は信じられないだろう。彼らの「どんなこと」は、きわめて狭い範囲しかカバーしていないのだから。それから少しでも逸脱したことをした瞬間に、見捨てられるということの裏返しなのだ。

 

複雑な心情を書いていたらまとまらなくなってきたので今回はこの程度にしておく。

怒りのゆくえ

 お久しぶりです。今まで疑問にも思ってこなかったようなことが、一気に自分の中で理由付けができて解決することってありませんか。そういうことがあったので書きます。

 

 私の家族には、普段はものすごく人当たりが良くて優しいのに、突然怒り出す人が多い。性格が悪いわけではない。むしろ、普段から色々なことを考えて行動する、慎重でまじめな人ばかりだ(それがどう作用しているかは置いておいて)。

 なのに、突然些細なことで怒り出す。これは両親に顕著なので例を挙げておくと、髪の毛がじゃまだったので頭を傾けて前髪を整えたら、父親に「そんなに頭を振るんじゃない!」と怒られる、夕食後パソコンを使用しようとしたら「なんでいつも片付け手伝わないの!」と急に怒られる、等。最近は少なくなってきたが、小さい頃はよくびっくりして泣いたものである。

 

 最近自分の行動と照らし合わせて気がついたのだが、これは普段から細かいことでたまっている怒り(父親の場合、もっと髪を切った方が髪が邪魔にならないのに、とか、母親の場合、少しでいいから毎日食事の後は手伝ってくれないかしら、とか)が、ほんの小さな出来事がきっかけで噴出してしまっただけなのではないか。

 「それじゃ、嫌だなあと思うたびに相手に伝えて直して貰ったらいいじゃない」と考える人もいるだろう。しかし、本人達が怒りを我慢していることに気がついていないことも考えられる。友人とか知り合いに不満を離す、いわゆる愚痴というものにも表出してこないレベルの小さな鬱屈なのだから。

 何より、私の家族にはいい人であろうとする意識が強すぎる人が多い。相手に日常的に不満をぶつけるなんてもってのほかだろう。突然怒られる方が怒られる側である子どもとしては驚くし、何がきっかけになって怒られるか見当がつかず、萎縮してびくびく生活する羽目になるのだが。

 

 いい人が突然怒り出すとき、本人は積もりに積もった怒りを発散しているのだが、普段一切それが露見しないだけに、どれだけ困っているか・怒っているかが相手に全く伝わらない。相手は、迷惑をかけているとは考えた事もない行動に関して、ものすごい剣幕で怒られることになる。ものすごい剣幕というのも、相手が傷つく事なんてお構いなしに、自分の怒りだけを「私はこんなに怒ってる!」と振りかざすだけの怒り方である。

 この怒り方で、進路や成績について罵倒されたことも数知れず。成績のいい妹と比較されているように感じたことも数多く。大学に出てくるまではまったく萎縮して、「なるべく怒られないように!」と生きてきた。

 しかし、これは私が怒っている人の子どもだったから起こったこと。それが会社の同僚や、友人に炸裂したとする。彼らはきっと、萎縮すると言うより驚くだろう。怒られた周囲の人間は「なんでそんなことで怒るの?短気だなあ」とか「変な人~」と思うだけなのだ。

 

 では、日々積み重なる怒りをどうすればいいのか?

 私は、友人に事実あったことと思ったことを話すことと、自分の趣味とで発散することが多い。自分が違和感を覚えたことや、不快だと感じたことをそのままにしておくのはよくない。言葉にすると、自分が怒りを感じたことが他の人にどう受け止められているかを客観視できる。

 

 両親に趣味ってあったっけ、と振り返ったとき、趣味らしい趣味があると言えないことに気がつきました。趣味と言えばわたしたち子どもと旅行に出ることくらいです。でも、このことをどうやって彼らに伝えたらいいのか分からないのです。怒られるのは嫌だなあ……。

お金とストレス解消について

お久しぶりです。内定が出なくて本当に焦っています。

6月中に一つでも記事を書きたいと思っていたのですが、全然考えがまとまらなかったです。

それと、今すんでいるところは騒音がひどいので引っ越すことにしました。忙しすぎて「よく分からない」と丸投げしたいと思うことがたくさんあります。

今日は何をするにも必要なお金の話を書きました。

 

お金を支払って何か欲しいものを手に入れることは、結構なストレス解消になる。たいてい、心から本当に欲しいものは買うかどうか迷ったり、額が大きかったりするものだ。その迷いを乗り越えてほしいものを手にすると大変な達成感があるし、大きな額のお金を一気に使う高揚感なんかは非日常である。支払いは一瞬だが、その一瞬が手に汗握るクライマックスなのだ。

 

中高生でいた頃は、親に怒られたり、勉強がうまくいかなかったりするストレスを、金銭を使うことで解消していたように思う。その頃からアニメやゲームやその関連グッズを集めることが好きだったから、たまの休日にアニメグッズの店に行っては、目をつけていたグッズとか、友人へのお土産と称して箱入りのお菓子なんかを買って帰った。一度の会計で英世が7~8人出て行くような買い物をした。家族から、そんなものに金を使うのはやめた方がいいと言われたこともあったが、それはやめられなかった。当時から、7~8英世使うような買い物で、自分がストレスを解消しているという自覚が、薄らとあったからだ。

 

ところが、最近は感覚が変わってきた。就活で遠出を繰り返し、それに伴う出費の頻度が以前とは比べものにならなくなった。交通費とちょっとした食費を合わせると、結構な額を使わざるを得ないのだ。今もアニメやゲームやその関連グッズは好きだし、逸れ関連のコラボカフェやイベントに足を運ぶことは多い。そこで購入する物は本当に心からほしいと思っている物だし、買うかどうかきちんと自分の中で結論が出た物だけだ。なのに、なぜか罪悪感がある。「こんなものにお金を使っていてはだめだ」と思うことがある。欲しいものが手に入ったはずなのに、その喜びを感じないときさえある。

 

忙しくて、今までのように充実感や達成感を感じられていないだけだろうか。生活に欠かせない物を購入するときにも罪悪感を感じることがある。どうにかしてこんな風に感じないようになりたい。

感情の表出について

4月には3月よりも多く更新しようと思っていたら、あっという間に終わりました。ご無沙汰しております。

 

先日、「うつになりやすい人の特徴」を知りました。鬱に陥ったことのある自分の経験を踏まえると「全て自分でしないと気が済まない」「完璧主義である」「気落ちしている・周りと同じ振る舞いができない自分が許せない」というものが顕著だと思っています。(ここでは、医師の診断を受けていない、うつ病によく似た症状のこともまとめて「鬱」と表記します。)

ところで、私には妹がいます。同居していないのですが、GWを利用して私の住んでいるところへ遊びに来てくれました。

 

私の妹も軽い鬱状態に陥ったことがあるのですが、そのことを進んで私に話してくれることはありませんでした。彼女がそのような状況に陥っていると知ったのは、彼女と母親の会話を通してでした。

彼女の場合、自分がしたことを批判されるのが怖くて、知り合いに会ったり、外に出られなくなったりしたようです。私も妹も一応の進学校に通っていた「いい子」だったので、周囲から欠陥を指摘されるのが恐ろしいというのは当たり前で、また優等生的な落ち込み方だと思います。

 

彼女が鬱になったのは私が鬱に陥り、そして脱却した後だったので「なぜ私を頼ってくれなかったんだろう」という気持ちになりました。理由を直接訪尋ねてみたところ、「人に弱みを見せたくないと思っていた」だそう。とはいえ、彼女が悩みを話す人は彼女の近くに数人いたようです。家族であり、鬱をすでに一回経験した人間が近くにいたのに、頼ろうという考え自体思い浮かばなかったと言っていました。

 

鬱に陥りやすい(陥っている)人の特徴として、自分の本音を打ち明けない、ということも挙げられる気がします。周りの人が難なくこなしていることができなくて辛い自分は間違っているとか、今まで通りに頑張れない自分は正しくないとか、感じているような気がします。実際、鬱から脱却した後、自分は周囲からの目をある程度気にしないと切り捨てて、自分の感じたことを口にすることで、だいぶ楽になりました。

仲の良い友人と一緒に行きたいと思っていたお店が、いざ訪れてみたら閉まっていた時に、私は「くやしい!」と思わず大きな声を出しました。友人は「そんなにくやしかったの?」と苦笑しながら受け入れてくれました。

これは小さな出来事の例ですが、周囲の人間は、自分がどのように感情をあらわそうと、ひどい中傷や暴言を言わない限り、大抵は受け入れてくれると思います。鬱に陥ってから「自分の感情に素直になれ」と言っても実行するのは難しいですが、日ごろから感情のガス抜きをするのは案外簡単で、意外に大事なことだと思います。

 

誰かに具体的な不満や苦しさ、辛さを直接話すことに限らず、日記やブログにあらわすことも、感情表現の一つだと思います。私も、感情をためこまないために、頭の中だけで独りよがりな結論に至らないために、このブログを書いています。

直接感情を表現するのが苦手でも、様々な方法で、感情の発散ができます。

手遅れにならないうちに、自分に合った方法を見つけるのが一番だと思います。

親しい人を亡くすということ

少し前から故郷へ帰省しています。帰省のついでに、両親と妹と一緒に旅行にいってきました。
日本海が見える旅館に泊まり、夕方はよにんで海岸の貝殻を拾って楽しみました。
今回は旅行をきっかけに呼び起こされた、亡くなった大切な人に対する感情の話です。

私には姉がいました。4つ上で、思春期には邪険にされたりもしましたが、大学に進学して一人暮らしを初めてからは、当時高校生だった私と妹をよく気にかけてくれていました。
姉は私が高校二年生の時に亡くなりました。彼女は4歳の頃からⅠ型糖尿病を患っており、内臓がだいぶ疲弊していたようです。

Ⅰ型糖尿病については、ここでは詳しくお話ししませんが、ぜひ検索して調べてください。ここから先の糖尿病についての話は、私の個人的な知識に基づいて書かれたものです。間違いがあるかもしれません。
糖尿病を簡単に言うと、食事後に上昇する血糖値を下げるホルモンが出なくなる病気。Ⅰ型糖尿病は、生活習慣や年齢に関わらず、それが突然発症してしまうものです。

そんな訳で、姉は一人暮らしの最中に亡くなりました。もちろん当時は(詳しく書きませんが)とても悲しくつらく感じました。ですが、数年たった今では、親しい友人にそれを打ち明けることも少なくありませんし、話しているときにつらいと感じることもありません。「自分について知っていてほしいこと」のうちの一つになったのです。
そうなったと信じていました。

昨日、入浴しながら旅行について思い出していました。どんな観光地より、私には貝殻拾いが何程楽しかったので、私はふとその情景に姉を配置してみました。小学校の遠足に熱を出した友人が来られなかったときのように、「彼女がいたら、私たちがこんなことではしゃいでいるのをどう見るだろう?一緒にはしゃいでくれるだろうか?それとも呆れるかな?」と考えてみたのです。
しかし、その考えは展開しませんでした。というのも、先の問いに全くもって答えがでなかった、つまり「彼女の生前の行動パターンからして、こういう行動をとりそうだ」と、予測することができなかったのです。

私は姉を忘れたのだ!と思い至りました。同時に涙が出てきました。
私は人生の半分以上をひとつ屋根の下で過ごした人を、なんの抵抗もなく忘れてしまう。それはとても無情な行いに思えます。思い出の概要は思い出せても、姉の歩き方や声は浮かばない。覚えていることと言ったら、夏の暑い日に自分のコップに氷を山盛りにしてパソコンの横に置き、ネットサーフィンをする丸まった背中くらいです。
忘れられた姉は、海岸で私たちの輪に混ざれず、遺影の額縁のなかで微笑んでいるだけでした。

忘れられた故人がかわいそうだというわけではありません。(故人の意図や気持ちを勝手に予想するのは、生きている人のエゴだと思っています)長い時間を共に過ごしてきた人間を、あっさりと、自分の生活で覚えなければならないことを優先させ、忘れてしまう、自分に腹が立ったのです。それをどうしようもできないこと、気がつかないうちにここまできてしまったことが悲しかったのです。

親しい人を亡くした人には、こうした経験をした人もある「かもしれません」。この事情は簡単ではなく、個人個人で経緯が異なるので、一概に「親しい人を亡くした人はこういう経験をする」とは言い切れません。
でも、そういう経験をした人は、時間がたって元気になったように見えても、一言で言えない複雑な思いや気持ちが入った箱をずっと持っているように思います。自分でも分からないタイミングで(夢に故人が出てくるとか、私のように)それが開いて、どうしようもない気持ちになるのではないかと思います。

箱とその人の関係に他人が入る余地はありません。というのも、本人が箱の存在に気がついていないことが多いからです。箱とは、完全に個人で向き合っていかなければならないのです。

長々と書きましたけれど、人がなくなるということは大変なことですね、同じ境遇であっても立ち入ることはできないし、本人もその大変さに気がついていないこともありますね、という話でした。
箱がまたいつか開いたら、その話を書くかもしれません。