うらにわのリター

もう少し上手に生きたい(˘ω˘)

親しい人を亡くすということ

少し前から故郷へ帰省しています。帰省のついでに、両親と妹と一緒に旅行にいってきました。
日本海が見える旅館に泊まり、夕方はよにんで海岸の貝殻を拾って楽しみました。
今回は旅行をきっかけに呼び起こされた、亡くなった大切な人に対する感情の話です。

私には姉がいました。4つ上で、思春期には邪険にされたりもしましたが、大学に進学して一人暮らしを初めてからは、当時高校生だった私と妹をよく気にかけてくれていました。
姉は私が高校二年生の時に亡くなりました。彼女は4歳の頃からⅠ型糖尿病を患っており、内臓がだいぶ疲弊していたようです。

Ⅰ型糖尿病については、ここでは詳しくお話ししませんが、ぜひ検索して調べてください。ここから先の糖尿病についての話は、私の個人的な知識に基づいて書かれたものです。間違いがあるかもしれません。
糖尿病を簡単に言うと、食事後に上昇する血糖値を下げるホルモンが出なくなる病気。Ⅰ型糖尿病は、生活習慣や年齢に関わらず、それが突然発症してしまうものです。

そんな訳で、姉は一人暮らしの最中に亡くなりました。もちろん当時は(詳しく書きませんが)とても悲しくつらく感じました。ですが、数年たった今では、親しい友人にそれを打ち明けることも少なくありませんし、話しているときにつらいと感じることもありません。「自分について知っていてほしいこと」のうちの一つになったのです。
そうなったと信じていました。

昨日、入浴しながら旅行について思い出していました。どんな観光地より、私には貝殻拾いが何程楽しかったので、私はふとその情景に姉を配置してみました。小学校の遠足に熱を出した友人が来られなかったときのように、「彼女がいたら、私たちがこんなことではしゃいでいるのをどう見るだろう?一緒にはしゃいでくれるだろうか?それとも呆れるかな?」と考えてみたのです。
しかし、その考えは展開しませんでした。というのも、先の問いに全くもって答えがでなかった、つまり「彼女の生前の行動パターンからして、こういう行動をとりそうだ」と、予測することができなかったのです。

私は姉を忘れたのだ!と思い至りました。同時に涙が出てきました。
私は人生の半分以上をひとつ屋根の下で過ごした人を、なんの抵抗もなく忘れてしまう。それはとても無情な行いに思えます。思い出の概要は思い出せても、姉の歩き方や声は浮かばない。覚えていることと言ったら、夏の暑い日に自分のコップに氷を山盛りにしてパソコンの横に置き、ネットサーフィンをする丸まった背中くらいです。
忘れられた姉は、海岸で私たちの輪に混ざれず、遺影の額縁のなかで微笑んでいるだけでした。

忘れられた故人がかわいそうだというわけではありません。(故人の意図や気持ちを勝手に予想するのは、生きている人のエゴだと思っています)長い時間を共に過ごしてきた人間を、あっさりと、自分の生活で覚えなければならないことを優先させ、忘れてしまう、自分に腹が立ったのです。それをどうしようもできないこと、気がつかないうちにここまできてしまったことが悲しかったのです。

親しい人を亡くした人には、こうした経験をした人もある「かもしれません」。この事情は簡単ではなく、個人個人で経緯が異なるので、一概に「親しい人を亡くした人はこういう経験をする」とは言い切れません。
でも、そういう経験をした人は、時間がたって元気になったように見えても、一言で言えない複雑な思いや気持ちが入った箱をずっと持っているように思います。自分でも分からないタイミングで(夢に故人が出てくるとか、私のように)それが開いて、どうしようもない気持ちになるのではないかと思います。

箱とその人の関係に他人が入る余地はありません。というのも、本人が箱の存在に気がついていないことが多いからです。箱とは、完全に個人で向き合っていかなければならないのです。

長々と書きましたけれど、人がなくなるということは大変なことですね、同じ境遇であっても立ち入ることはできないし、本人もその大変さに気がついていないこともありますね、という話でした。
箱がまたいつか開いたら、その話を書くかもしれません。