うらにわのリター

もう少し上手に生きたい(˘ω˘)

何度も思い起こされる悲しみについて

親しい人を亡くした経験についての文章です。そのような内容を読みたくない気分の人は読まないでください。また、読んでいて悲しくなったり辛くなったりしたらすぐ読むのを止めてください。「他の人の悲しみに触れると、自分の感情や悲しみがちっぽけなものに思えてしまう・自分が薄情で浅はかな人間に思えてくる」ということが起こります。いつでも読むのをやめられるようにして読んでください。

 

親しい人を亡くしたあと、繰り返し考えた事柄がある。

・なぜ優秀なあの人が死に、価値のない私が生きているのか。

・あの人が生きていたら、自分がなんとなく過ごしている毎日をどんな風に役立てて生活していたのだろう。

 

それは決まって調子の悪いとき(体調が悪いとき、何か悲しいことがあったとき、自分がいまやっていることについて疑問を覚えたときなど)に思い出され、「あの人ではなく私が死ぬべきだった」「あの人が生きていたらこの時間をより有効に使うだろう」という結論に達して、泣くことしかできなかった。

 

親しい人を亡くしたとき、その人についての情報が周囲の人から自然と流れ込んでくる。高校生の私が大学生の姉を亡くしたときには、姉の友人から大学での様子を聞いた。いつも図書館に通っていて、周囲の友人も驚くほどまめに勉強していたそうだ。教授から借りていたという分厚い本を親が返しているのを見た。私はそれを聞き、見て、姉はとても優秀な学生だったことを知らされた。それに比べて当時の私は受動的に勉強に取り組んでいるだけで、勉強が面白いとか、学びたい内容に向かって努力するとか、そういうことができていなかったし、大学生になってもそんな学生になれる自信がなかった。

「姉は優秀な大学生だった」という1つの情報から、家族という身近な存在の知らなかった面を見せられ、さらにはとても優れた人物だったという強烈な光の側面を見せられてしまった。

故人について自分が知らなかったことを知ることができたこと自体は悪いことではない。それを知ったとき、ただちにショックを受けたわけでもない。しかし、時間が経つにつれて、(私の場合は故人との思い出などよりも鮮烈に)故人は自分よりも生きる価値があったのではないか?と突きつけられた。

 

数ヶ月前には、大学の同級生が交通事故で亡くなった。突然のことだったが、連絡が素早く行き届いたため、彼のお別れ会へ向かうことができた。彼は陽気で、人脈も広かった。いつも忙しそうにしており、大学という環境をフルに活用して学生生活を送っている人だったように思う。彼の周りにはたくさんの人がいたと思うけれど、一人一人の出身地や所属サークルを覚えてくれていた。彼のお別れ会に私が知らない人々が彼をおもって駆けつけ、悲しみに暮れているのを見た。

それから数日、目が覚めるとまず「彼が死んでしまった」という事が思い出され、胸が痛んだ。昼間、仕事の一環で細々としたことをやっているときや、仕事から帰ってお風呂に入ているときには泣いてしまった。自力ではどうにもならない、生きて行くには不要なことを悶々と考えるとき、「彼がもし生きていたら、この時間をどう使ったのだろう?」と考え込んでしまった。

 

姉についてのこういった感情は、姉が亡くなってから5年以上経った今ではあまり呼び起こされなくなってきた。もちろん、同じような感情(故人のほうが自分より価値がある、自分が死に故人が生きるべきだったという考え)をすることもあるけれど、「そういう感情を抱いてしまうものなのだ」と思うことにしている。これは万人に通用する解決策ではないし、これが正しいかどうかは分からないし、それを聞いたからといってすぐにそう考えられるようになるとは思わない。しかし、こういう風に何度も考えてしまうことはおかしいことではないし、感じること自体は悪ではないと思うだけでも少しは気が楽になった。

 

故人と自分の価値を比べてしまったり、やっと以前の思考に近づいてきたなと思ったのに、故人を急に何度も思い出すようになってしまった、「私は生きていても意味がない。死ぬべきだ(いなくなってしまいたい、私が死に、故人が生きていればいいのに)」「乗り越えられたと思ったのにそうではなかった。私は前に進むことができていない」と考えてしまっても、同じように考える人はここにもいること、そう感じることは悪ではないこと、それだけは覚えておいてほしい。