うらにわのリター

もう少し上手に生きたい(˘ω˘)

故人の話をするということ

ブログに書きたいと思うことが浮かんでは消え、浮かんでは消え、書こう書こうと思って書かないでいるうちに丸1年経ってしまった。

今日は故人の話をするときに感じることについて書いておこうと思います。これは私の考えた事であって、万人に当てはまる正解ではないことを念頭に置いて読んでください。

 

数日前は、大学時代のある友人の命日だった。

その友人に関する思い出を誰かと話したいとか、SNSで発信しようかとも思ったけれど、話したり発信したりせずに終わった。人が話したり、発信したりしているのを見る分には抵抗感はないのだが、自分がそれをするとなると、何か引っかかるところがあった。

 

私が故人について話すことに抵抗があるのは、「故人を使って自分の話をしているように感じる」からだと思う。

 

私は昔身内を亡くしたことがある。当時は学生だった。家族以外の人に故人の話をしたいと思ったら、友だちくらいしか話す相手がいない。もし、友だちに故人について話すとしたら、「私は故人とこういう関係で、以前こういう思い出があって、だから……」と説明しなければ、相手に伝わらない。

聞く方は自分の知らない故人の話を急に聞かされて驚いてしまうだろうし、何よりその話をして分かってほしいのは私の感情についてではないか、と感じたので、私は故人の話をあまりしなかった。

それに、「故人の思い出」を語ることは、生きている人が主体になる。故人の話をしようとして

「あのときこういうことがあって……あれっていつのことだったかな?」

「あれ、あのときあの人は何て言ってたんだっけ?」

と話しても、「あれは○月だったよ」とか「私その時○○って言ったんだよ」とその思い出を補完する人はいない。当たり前だが、亡くなっているからだ。

だから、「あのとき私はこう思った」「あのときのことを私は今でも思い出す」という話しかできない。故人の話をしたいのに、「私」が出てきてしまうのだ。

 

色々な人が故人について話しているのを聞くと、色々な人の故人への思いを知ることができる。その思いで、故人の輪郭が徐々に見えてくる。しかし、そこに故人はいない。ただ輪郭だけが、「いないこと」だけがはっきりしていく。何年経ってもそれは悲しい。