うらにわのリター

もう少し上手に生きたい(˘ω˘)

ブログを書く理由

先日、身内の回忌に参加して思い出したことがある。それは今、私が手帳とかブログを書く理由につながるなーと思ったので、ここに残しておく。

 

思い出したのは、亡くなった姉の遺品の整理をしていたときのことだ。

姉宛に届いた郵便物の封筒が出てきた。姉はその封を指でちぎって開けたようで、指の当たっていたところが波打って残っていた。

結局それはゴミだから処分されてしまったのだが、私は子供ながらに「姉がいたと分かる証拠」なんだと思い、捨ててしまうことに心残りがあった。取っておいても何にもならないので、捨ててしまったと記憶している。

 

故人の好きだったものとか、かつて着ていたもの、使っていたものは残っていても、故人本人が直接何かしたあとが残っているものは、案外残っていないものである。

「直接何かしたあとが残っているもの」の例を示すのは難しいが、先に書いた「封筒を開けたあと」もそれに含まれると思うし、ペンで書いた文字も含まれると思う。

 

話が飛躍するけれど、だから私は手帳とか、ブログを書くんだと思う。「死んだ時に自分の感じたことを残しておきたいから」というと大袈裟だし、日々死を意識していると思われそうだけど、そういうわけじゃない。

 

直接その人が手がけたものというのは案外少ない。意識して残さないと残らない。

手紙とか、目的をもって書かれたものならまだしも、日々考えていたこととか、その人に起こったことの大半は、その人の頭の中にしかない。それどころか忘れてしまってその人の頭の中にさえなくなることもあろう。

だから書く。書くことで残す。別に誰にも見られなくてもいいのだけど、書かないと残らないことが多すぎる。人の頭の中を見ることができない以上、私が覚えていられなかったら誰も覚えていられないのだ。

 

別に感動したこととか、嬉しかったことじゃなく、久しぶりにいい肉食べたら体調が良かったとか、昨日は寝るのが遅かったから肩が凝ってバキバキだとか、そういう話でいいと思う。言うまでもないことだけど、それをネットにアップしなくてもいい。私は、スマホでもパソコンの中でもいいし、日記帳でも手帳でもいいから、どこかに目に見える形で残しておきたいし、できたら親しい人にも残しておいてほしいと思う。

 

先述したように、私たちは自分以外の人の頭の中を見ることができないから、私はその人がどんなことを残したいと思ったのか、その人がその日いた場所でどんなことを思ったのか、それをちょっと知りたい、と思っても、教えてもらわない限り知ることはできない。だからといって「その人がいなくなったら全部分からなくなっておしまい」は悲しい。

 

だから私は書くし、親しい人も書いてくれていたらいいなと思う。別に私が見なくても(一生見せてもらわなくても全然)いいから、その人が毎日感じた手触りみたいなものが、どこかに残っていてくれたらいいな、と思う。