うらにわのリター

もう少し上手に生きたい(˘ω˘)

優等生の悔い

 今日はです・ますの気持ちなので、です・ます体で書きます。

 

 自分から名乗るのもおかしいですが、大学に進学するまでの私はずっと優等生でした。学力も悪い方ではなかったのですが、行動が優等生だったのです。親や教師に対して、従順すぎるほど従順に行動してきました。親が習いごとの体験教室に連れて行けばかよったし、先生が受験が近いから勉強しろと言えば、その通りにしました。

 

 今、過去の優等生っぷりが裏目に出ています。就職活動とか卒業論文のテーマ決めとかいうものは、何に関しても自分から動かなければ何の進展を生みだすことができません。しかも、明確な締め切りとか、やるべきことをしないとしかる人がいるとか、点数化されて評価されるとかいうことはありません。

 

 行動に自発性がないのです。よほど好きでなければ、物を食べるとか、寝るとかいうことまでしたくなくなる時すらあるほどです。親や先生がいれば、「生活習慣の乱れ」を指摘してくれたでしょうし、いい加減寝なさいとかしかってきたでしょうが、今はそんな人はいません。当たり前のことなのですが、これは元優等生にとっての行動を決める指針を失うことを意味します。

 

 そばでとやかく口を出してくる監督者がいなければろくに一人で将来を決めることもできない、という事実に気付いて呆然としています。これまで、進路選択や受ける講義など、自分の判断に基づいて行動してきたつもりでした。ところが、その選択のどこかには「こうしたら怒られないよな」とか「これを選んだらきっと怒られるだろう」という保身の考えが潜んでいた、ということにも気付きました。

 

 私は昔から絵を描くことが好きで(このことについても色々な経験があります。次の更新はこの話にしようと思います)、親も進んで私に絵を描かせました。そして、「あなたが好きな道に進みなさい。あなたが好きなら、私たちは何も言わないから」と言い続けました。その反面、テレビで音楽や芸術の専門学校の広告を目にすると「あんなところは馬鹿の行くところだ」と嫌そうに言うのでした。

 

 私は、この状況下で「芸術の道に進みたい」と言ったところで、頭ごなしに怒られて否定されるのではないか、という発想をしてしまいました。その後、部活動などでずっと芸術や創作活動に触れ、何かをつくってはいるものの、自分の創作に自信が持てなかったり、誰かに笑われているのではないか、馬鹿にされているのではないか、自分が否定されるのではないかと思い込むことがあります。また、芸術系の進路を選ぼうと考えすらしなかったことを、今でも後悔します。

 

 親の二つの発言は、どちらも軽い気持ちでなされたことでしょう。しかし、その言葉は優等生には重すぎるものでした。親の軽い一言で思考の幅を狭めてしまったこと、今まで親の言葉に支配されてきたこと、自分一人では何一つ選べないことを自覚すると、どうしても後悔してしまうのです。