うらにわのリター

もう少し上手に生きたい(˘ω˘)

絵を描くということ

 誰もが、SNSで他の人が描いた絵を容易に見ることができるようになった。私もツイッターで色々な人の絵を目にする。絵と一口に言っても、自分の経験したことをまんがにして描いていたり、キャラクターを描いていたり、学校の課題で描いていたり、様々だ。

 

 ここでは、絵の完成度や精度や、きれいかきれいではないか、下手か上手かについて書きたいのではない。もし、そう解釈できる表現があったとしても、それは私が意図していないものであることを理解してもらいたい。ここでは種類や動機について書きたい。その動機についても、善し悪しや順位をつけるものではない。

 

 ツイッターで絵を見ていると、「自分が経験したこと・思ったことを何らかのキャラクターに代理させる」ものが多いように感じる。それらを見ていると、気軽に絵を描いているんだなあ、それだけ身近な手段として絵を選ぶことができるのだなあと羨ましい気持ちになる。

 

 中高生時代に美術部に所属し、今も作品を作る活動を続けている。時々、自分が経験したことをキャラクターに代理させて、絵にしたいと思うこともある。しかし、まだ実行に至ったことはない。絵を描く時には、何かものすごく強い衝動とか高揚が必要だからだ。その強い衝動とか、高揚とかを自分で制御したり準備したりできないからだ。

 

 中高生時代からずっと、作品を作る時に衝動や高揚を意識して準備したことはなかった。展覧会が近づいたら自然とスイッチが入って(周囲から入れさせられることもあったけれど)、創作に取り組んだ。日常的に少しずつ取り組んで完成させるのではなく、その時の感情を一気に高ぶらせて何週間かで完成させる。そうすると、一時の感情の塊が出来上がる。

 

 一時の感情の塊を作る時には、締め切りとか義務があって、自分を必死にかきたてて描いていた。ところが、日常を描くとなると、締め切りも義務もない。絵以外の手段で伝えることも、できないことはない。そうなると、何故か描く気が起きなくなってしまうのだ。

 

 おそらく、私は絵として感情の塊を作るタイプ。日常的に少しずつとか、さっきあった面白い出来事を絵にして皆に伝えようとか、そういう動機で描くタイプではない。自分はこう感じている。こう思っている。でも何か他の手段じゃ嫌だ!絵を描くぞ!!というタイプなのだ。

 

 でも、感情の塊の絵ばかり作っていると、作り終わった後の燃え尽きがとても長い。加えて、その塊を否定されたりすると、ものすごく大きなショックを受ける。性格も影響して、直接否定されなくても、他のものに高い評価がたくさん集まるだけで、悲しい気持ちになってしまう。

 

 今、A4の紙にカラーペンで着彩するという作品を昨年の11月から作り続けている。A4一枚が埋まったら、また別のA4の紙を着彩する。週に一度は手をつけて、少しずつ長く描き続けることを意識している。感情の塊ばかり作っていては受ける波が大きすぎるし、もう少し絵という手段を自分に近づけたい。大仰な感情がなくても絵を描く手段を選ぶようになりたいからだ。

 

 この作品を作っているときにも、描きはじめた時にはなかった思いがぐつぐつ湧きあがって来ている。また感情の塊になってしまいそうだけれど、私と絵の関係が変わることを期待して、ちょっとずつ描いていこうと思う。